2023.8.16
2022年加入の柴田雅之選手。度重なるケガで戦線離脱しながらも、イベント参加などを通してチームの盛り上げに一役買ってきた。どんな思いで走れない日々を過ごしてきたのか、その経験を糧にこれからどんな進化を遂げていくのか。穏やかながら力強い、まっすぐな眼差しで語ってくれた。
1994年11月3日、京都市内に生まれた柴田。小学時代は水泳とサッカー、中学3年間は陸上に打ち込んだほか、小学校から高校まで10年間にわたって硬式テニスを続けたスポーツ少年だ。習い事のため自転車移動も多く、自転車に対する興味はあったが、競技に興味を持ったきっかけは、YouTubeで見たツール・ド・フランスの映像だった。
「下り坂を100km/hくらいで走っているのがカッコよすぎて、『こんな競技があるのか』と思いました。自然が好きなので、あんなダイナミックな景色を見ながら走れるのもすごいと思ったし、下りの疾走感がとにかくカッコよかったです」
高校卒業後は、自転車部のある龍谷大学に進学。森林生態学を学びながら本格的に自転車競技に打ち込んだ。
2015年、2回生の春休みにはスペイン・マヨルカ島で開かれた学連主催の合宿に参加。現地のプロコーチ指導のもと本場のトレーニングを経験し、レースにも出場した。最後のレースでは5位入賞を果たして、賞金も獲得した。
「あの入賞で、人生があらぬ方向へ進みましたね(笑)。現地のコンチネンタルチームと一緒に練習したりもしたんですけど、足の動きとか、本場で、本物を見られて勉強になりました。あと、コーチの自宅でパワートレーニングを教えてもらったり、体重や食事をすごく管理しているのを見たり、生活やトレーニングの切り替えの仕方を学んだり…。あのとき学んだことは、今も生きています」
3回生の年、スポーツ栄養学が専門の石原先生が顧問となってからは、食事面や科学的トレーニングに関するサポートも得られるようになり、「よりこの世界でやっていくイメージを持てた時間」を過ごした。同年11月には学連の大会で初優勝。4回生のときにはUCI国際レース「ツール・ド・くまの」に関西学生選抜のメンバーとして出場し、海外勢や国内プロ選手も多数出場する中、第2ステージを30位台で終えた。
「もう一個、階段を上がれた」と手応えを感じた柴田は、大会後すぐ、那須ブラーゼンにコンタクトを取った。
「プロになりたいというより、ブラーゼンに入りたいという気持ちで、(当時所属選手だった)下島(将輝)さんに『僕も那須ブラーゼンに入りたいです』って言いました。(ブラーゼンは)知り合いが何人もいたし、若手を育成されているチームだったので」
かくして柴田は大学卒業と同時にプロ入り。レースでも普段の生活も、個人で動くことが多かった学生時代とは違い、すべてにおいてチームとして動くプロ生活に「やっていけるかな」と不安を抱いたというが、元来、柔軟性のある人柄なのであろう。「真逆の(性格の)人もいて、こういう人もおるんかと衝撃的でしたが、いろんなタイプの人と一緒にやっていくのは良い経験になりました。楽しかったです」と当時を笑顔で振り返る。ロードレース選手としても人としても、もまれて鍛えられて、地元の人々に愛される選手へと成長した。
那須ブラーゼンで5年間を過ごした柴田は、2022年、広島へ移籍。海外レースに出場できる機会と、外国人選手と活動をともにすることで新たな何かを学び、吸収できる環境を求めた。
ステップアップを期しての移籍だったが、待ち受けていたのは、試練の日々だった。
悪夢の幕開けは、シーズン開幕戦だった。
レース終盤で落車に巻き込まれると、骨折こそしなかったものの指の靭帯を傷め、首の神経痛も発症。復帰後も調子が戻りきらず苦戦が続いた。
シーズンも終盤に差し掛かる10月のおおいたアーバンクラシックでは、ラスト1周までサポートしながら自らも29位で完走。やっと「戻って来れたかな」と安堵したが、直後のしおやクリテリウムでは、集団落車に巻き込まれて複数箇所を骨折する大怪我を負ってしまう。
「前の選手が斜行して、ハスって(前の選手の後輪が自分の前輪に当たって)持っていかれました。どこか余裕を持って走れていなかったのかもしれません。相手がどんな動きをするか、怪我をしないためどう動くかがコントロールできていなかったのかも。この落車で、右肩の大結節と右の恥骨を骨折しました。北風が寒くて、手が震えていたのを覚えています。救護してくれた上野先生が『震えるのは血流を良くしようとしている反応だから、大丈夫や』と声をかけてくれたので、落ち着いて救急車を待つことができました」
それから約2ヶ月、やっと2時間程度の練習はできるまで回復した。が、その頃から今度は腰痛に悩まされるようになり、年が明けた2023年1月中旬、仙骨の疲労骨折と左の椎間板ヘルニアが見つかった
「これまでで一番キツかったです。リハビリも、病院なので普通のジムとかと違って『一緒に頑張ろうぜ!』みたいな感じじゃないので…心が折れそうでした(笑)。長かったですね。修行みたいな感じでした」
長く戦線離脱し、チーム練習に参加しても他の選手と同じだけ走ることができず、途中で折り返さざるを得なかった。罪悪感に苛まれる日々。イベントに参加していても「自分が出て、いいんかな」と引け目を感じていたという。
実際、他スポーツチームの試合会場でPRイベントに参加していた柴田を見かけたことがあったが、表情には覇気がなく、体も一回り小さく見えたのをよく覚えている。
おそらくそこが、プロ自転車ロードレース選手・柴田雅之の「底」だった。
焦りや罪悪感でメンタル的に追い詰められ、もがいていたときに救いとなったものがいくつかある。
ひとつは、「普段まったく読まない」のに読むようになった本。自分で見つけたり勧められたりして読んだ本から、浮き沈みや波を乗り越えるヒントを得た。
他の選手より多く参加するようになったイベントや、事務局でのデスクワークの手伝いも、気を紛らわし、自転車のことしか考えてこなかった頭のスイッチを切り替える助けになった。隔週で講師を務めるローラー台レッスンは、受講生に自分の経験や感覚を伝え、時には自らも自転車にまたがることで「やっぱり自転車はいいな」と再確認する良い機会になった。
そんな中、特に柴田の心を晴らしてくれたのは、知人の何気ない言葉だった。
「今、自分ができることを1つでもやっていこう」
何もやらないこと、10のうち10全部をやろうと思うことが自分を苦しめる。まず1つやってみよう、という言葉だ。それは、柴田の信念となった。
「休ませてもらいながら、まず1つ、できることをやろう。そう考えるようになりました。『今できることをやる』。それが自分を前に進ませてくれていると思います」
5月のTOJ(ツアーオブジャパン)の際は、パブリックビューイングで配布資料作りも手掛け、解説も担った。「わかりやすかった」と感想をもらえたことで、大きなやりがいを感じたという
「応援するという立場は経験して来なかったので、(客観的に見ることで、レースは)こんなに面白いんだ、選手ってすごいということに改めて気づきました。これまでは、レースに出ている選手たちを見て『なんで自分はここにいるんだ』と焦りや不満を感じていたし、プライドもありますが、受け流すことも覚えました。(選手や競技の)凄さを伝える立場に立ってみて、もっと知ってもらいたいと思いました」
底を経験して、立ち上がった人間は強い。今できることを淡々と、そして真摯にこなしていくことが未来につながると知った柴田に、迷いは感じられない。
競技選手としても、継続している病院でのリハビリと、元シマノレーシング選手でKEI cycles代表の木村圭佑氏によるバイクフィッティングのおかげで、調子は上向いている。
6月の全日本選手権で8ヶ月ぶりの復帰を飾ると、7月のJCL広島大会にも出場。サバイバルレースとなった両戦で完走し、存在感を示した。
「やっぱり『餅は餅屋』というか、専門家に見てもらうのが一番ですね。それが大きかったです。あと、トップス広島のおかげで他のスポーツチームの方と話す機会が増えて、食事を見直しました。糖質を減らしてタンパク質を増やすとか、今までの『シバター定食』のメニューを変えました。4時間の練習も難なく行けるし、体つきもようやく自転車選手らしく絞れてきました」
9月からは、再びUCI国際レースやJCLプロロードレースツアーなど、レース活動が活発化する。チーム史上最強の布陣を誇る今季のヴィクトワール広島で、柴田は自らも勝つチャンスを狙いつつ、チームのために「仕事」をするべく準備を進めている。
「この強いチームで何ができるかと考えた時に、ひとつ武器が要るなと感じました。
阿曽さんやベンさん、カーターもいる中、アシストしながら自分も上位でゴールすることがチームの求めていることだと思っているので、もう一度上れる(=上りのあるコースで強みを発揮できる)選手に戻りたいのと、ただ上れるだけでなく、ダッシュ力とか決定力をつけていかなきゃいけないなと。現状からぐっと上がるため、工夫しながらやっていきたいです。
あと、せっかくオーストラリアにチームメイトがいるので、1〜2ヶ月くらいトレーニング目的で行けたらいいなと思っています」
11月の誕生日で29歳になる柴田。プロ入り7年目ながら、コロナ禍のレース中断期間や故障による戦線離脱などで、キャリアは実質5年ほどの計算になる。ものの見方や考え方はレース活動の休止期間中も進化してきているから、選手としての上積みはまだまだ期待できそうだ。
数々の試練を経て帰ってきた柴田から、今後も目が離せない。
取材・執筆:きたのまゆみ
【プロフィール】
ライター、東京都荒川区出身
在京中はスポーツを主なフィールドに、雑誌、新聞やウェブなどで取材・記事執筆。
広島移住後は、約2年間にわたりヴィクトワール広島のチーム運営スタッフとして企画広報を担当。現在は、タウン情報誌やウェブを中心に活動中。